北の水辺で水面や空を眺めての独り言

by kitanomizube
 
非暴力(アヒンサー)・不服従(サティアグラハ)の闘い
非暴力(アヒンサー)・不服従(サティアグラハ)の闘い_c0046416_1653685.jpg
インド独立の父と言われるガンディー
「偉大なる魂」という意味の「マハトマ」という称号をつけ、マハトマ・ガンディーと呼ばれることが多いようです。
インドのお札はみなガンディーの肖像がついています

ガンディーの功績を知れば知るほど、その闘いのすごさが伝わって来ます

ガンディーの略歴は、グジャラート州ポルバンダルで、ポルバンダルの長官であるカラムチャンド・ガンジーとその第4夫人プトリバの子として、生まれました。 ヒンドゥー教 徒の家庭に生まれ育ったガンジーは、19歳で ロンドン に行き、ロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジに入学し、弁護士となる勉強をします。卒業後、 1893年 には南アフリカで弁護士として開業し、南アフリカの人種差別法に対してインド人の法的権利を擁護する活動に従事しました。 と、Wikipediaにあります。
つまり、ヒンドゥー教では上位のカーストの家に生まれ・・だから大学で学ぶこともできたと言えます・・弁護士になって活動しました。弁護士活動の拠点は、アパルトヘイトで悪名高き南アフリカ。そこで、外国人に対する「指紋押捺強制」が人種差別であるということで、主にインド人の人権確立のために闘ったといいます。
現在、日本ではまだ外国人に対する「指紋押捺」を義務づけています。とすれば、ガンディーの闘いが1893年以降(南アフリカでの弁護士活動開始)のことですから、日本はガンディーより100年は遅れている・・ということになるのかもしれません。
これは情けないことかもしれませんね・・
第一次世界大戦で、イギリスは将来の独立を約束してイギリス兵としてのインド人の参戦を求め、多くが志願しました。が、その約束は破られました。ガンディーも、約束を信じて参戦していたので(負傷兵の輸送業務という)大きな失望を味わうことになります。そこで、ガンディーの独立運動が始まるのでした。
 ガンディーの独立運動で特徴的なのは、「非暴力(アヒンサー)、不服従(サティアグラハ)」を徹底したことです。その姿勢は、何度投獄されても変わりませんでした。そして、イギリスの綿製品の使用をやめ、自ら糸を紡ぎ、粗末な布を織って身にまとおう。イギリスに禁止され、作れなかったインドの塩を、イギリスの塩を買わず、自分たちで塩を作ろう・・という運動などがそれにあたります。
前者は、その糸紬の車が独立運動の象徴として、長く伝えられることとなり。後者は、塩の行進として語り継がれることとなりました。
つまり、インドに昔からある自分たちの文化を大事にしながら、民族としての誇りを取り戻し、独立を目指す運動へと高めていったのです。
インドはかつて、世界一の綿織物生産地で、その手工業による「インド綿」の独特の風合いは今でも人気があります。しかし、産業革命を達成し、工業製品の綿織物を売りたいイギリスは、インドの綿織物の職人を集め、手首を切り落とす・・という暴挙をはたらいたのです。その結果、インドの綿織物は一時的に衰退し、イギリスの綿織物が売れるようになりました。
インドはかつて、日本と同じ製法の塩作りが盛んでしたが、イギリスが塩を独占し、インド人の製塩を禁止しました。しかも、インドに対して塩税をかけ、しかも当初価格の2000%にまで達したといいます。だから塩を造ろう・・と、海岸を目指して歩く「塩の行進」が始まるのです。
 同時に彼は、不可触民・・カーストの最下層の人々への差別をやめる運動。宗教融和策といって、宗教間の争いをやめさせる運動を、展開していたといいます。
 この、非暴力、不服従の運動は、アメリカのキング牧師、ミャンマーのスーチー女史に引き継がれたと言われます。
暴力による抵抗は暴力の連鎖を生むだけです。
非暴力という戦い方のすごさがわかる気がしますね。

ガンディーの運動に学び、世界から暴力を廃絶したいものです。

by kitanomizube | 2005-02-01 16:55 | 社会
<< 核廃絶は夢なのでしょうか? 北の水辺から、初の独り言 >>


S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
最新のトラックバック
お気に入りブログ
リンク
ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
関連リンク