北の水辺で水面や空を眺めての独り言

by kitanomizube
 
歴史は繰り返さず、人間は変わるものだ——と信じたい

筑紫哲也さんが亡くなったことを、「5号館のつぶやき」さんのエントリーで知った
かつて編集委員を務めた朝日新聞の記事から

〜〜〜ここから〜〜〜
「多事争論」貫き、戦後日本の姿追う 筑紫哲也さん死去
2008年11月8日3時4分
 新聞から雑誌、テレビまで垣根を超えて縦横に走り続けた筑紫哲也さん(73)が亡くなった。数少なくなった、戦争を知るジャーナリストの一人。ほぼ半世紀の間、メディアの世界に身を置き、戦後日本の姿を追い続けた。病を背負ってからも、その意欲は最期まで尽きなかった。
 「いつかこの日が来るかも知れないと思っていたが、本当に残念です」
 ニュース番組「筑紫哲也NEWS23」デスクを務め、親交が深かったTBS前報道局長の金平茂紀アメリカ総局長(54)は7日、電話取材に声を震わせた。「『多事争論』などで身をもって毎日戦っていた。テレビ報道にかかわった人間で筑紫さん以上の人は見あたらない」
 筑紫さんは敗戦を10歳で迎えた。59年に朝日新聞社に入社。68年から2年、米軍統治下の沖縄を追い、沖縄は終生のテーマとなった。大田昌秀・元沖縄県知事(83)は「筑紫さんほど沖縄の現場を本土に発信してくれた記者は後にも先にもいない。弱い立場の者への温かいまなざしと正義感にあふれた人だった」。
 70年代からはワシントン特派員や政治部記者として健筆をふるった。日本経済新聞客員コラムニストで早稲田大大学院教授の田勢康弘さん(64)は官邸記者クラブで席が背中合わせだった。「同僚と群れず、ひょうひょうとしていた。企業メディアの中でのジャーナリストの限界を突き破る闘いをずっとしていたのではないか」と話す。
 「朝日ジャーナル」編集長時代には、対談企画「若者たちの神々」など斬新な視点で注目を集めた。84年に対談した作家林真理子さん(54)は「時代の寵児(ちょうじ)として、物事を鋭く切っていく。怖い感じもした」と振り返る。「でも、海の物とも山の物ともつかない私をサブカルチャーの一員として認めてくれた」
女優の渡辺えりさん(53)も84年に対談。その後は舞台のたびに渡辺さんの地元山形の日本酒などを手に楽屋を訪れた。「人情味のある方でした」。演出家の鴻上尚史さん(50)は「20代半ばの僕を取り上げてくれて以来、一度も欠かすことなく芝居を見に来てくれた」。数年前、芸術関係者のパーティーで、背広姿で会場が埋まる中、2人だけがラフな半袖シャツだった。鴻上さんの姿に「やっとまともな人間に会った」とうれしそうだったという。
 89年秋、朝日新聞社を退社し、「NEWS23」のキャスターに就任。激動する世界をお茶の間に伝えた。
 その視線は、自らが属する組織にも厳しく注がれた。取材映像をオウム真理教幹部に見せたことが坂本弁護士一家殺害事件につながったことが判明した際には「TBSは死んだに等しい」と発言した。ジャーナリストの田原総一朗さん(74)は「出演を続けることに批判もあったがそれが彼のやり方だった」と語る。
 雑誌「週刊金曜日」の創刊に携わり、市民運動などにも深い理解を示した。辻元清美衆院議員(48)は96年に社民党から立候補要請を受けた日を思い出す。引き留めてもらおうと自宅を訪れたが、開口一番で「やれ」と言い切られた。「泥船だからこそ乗れ。市民の政党に変えろ」
 その後、ジャーナリストの領分を逸脱しているとの批判もあったが、「おれには政治家辻元清美の製造元責任がある」と言い続けた。
 「平和や平等に強いこだわりを持って、戦後の一つのともしびのような役割を果たしてこられた」
 闘病中も朝日新聞の無料会員サービス「アスパラクラブ」のサイトでコラムを連載した。最後となった5月21日付では中東の紛争や軍事政権の閉鎖性に思いを巡らせ、次の一文で締めくくった。「歴史は繰り返さず、人間は変わるものだ——と信じたい」
〜〜〜ここまで〜〜〜

まるで幕末の江戸幕府のように、おろおろするだけで何もできない政府や官僚を見ていると
筑紫さんの言葉が重く響く
本当に変わらなければ・・この国も世界も、人間は・・・
ご冥福を祈りたい

by kitanomizube | 2008-11-08 06:01 | 社会
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